行政マンのダウン症育児日記(12:2005/10/16記)

 

ウンチは汚い?

 

 

  突然ですが、ウンチって汚いと思います?

 そりゃあ汚いだろうって?そう、もちろん汚いですよね、もちろん。じゃあ鼻水はどうでしょう?えっ、いちいち聞くなって?

 どちらも一般には汚い、といわれているもので、自分もそのことに真っ向から反対する気はないのですが、最近ちょっと一概にはいえないなあ、なんて気にもなっているのです。

 

 赤ん坊がウンチをどこにするかというと、そう、オムツですよね。で、そのオムツを取り替えるのは、当然親なわけです。わが家では、オムツは紙と布の併用で、お出かけ時や夜など取り替える間隔が長くなる時は紙、それ以外は布オムツで対応しています。

 紙おむつの場合は、包んでビニール袋に入れて捨てるんですが、布の場合はちょっと大変です。布ですから使い捨てじゃないでしょ、だから洗うわけです。どこで洗うかというと、トイレで洗うわけです。ウンチを流して、ジャブジャブと洗うんですよ。えっ、どこでかって、もちろん便器の中です。便器の中に手を突っ込んで、ジャブジャブ洗うわけです。えっ?「汚ったねー!」って?まあ、汚いですけど、ほかにやりようがないわけです。

 まあ、慣れです。はっきり言って、慣れます。ほかにやりようがないですから。夏は水が冷たかったりして、いいこともあります(ちょっと強引)。

 

 歩の場合は、毎日お通じがあります。この10月で1歳半なので、540回。そのうち半分弱は自分がオムツを換えているとして、ざっと200個のウンチを見ているわけです。で、ここで断言しますが、ウンチは成長します。

 生まれたばかりの赤ん坊の便ってどんなだか、ご存知でしょうか?(もしくは覚えていらっしゃるでしょうか?)そう、ほとんど液体で、色も黄色なんですね。それが大きくなるにしたがって、多少の粘り気が見られるようになり、ペースト状になり、軟便になり、そして大人の便に近づいていくわけです。もちろん時々の体調により、色や形、においはさまざまです。入院時は、お腹に入ったウイルスのせいで酸っぱいにおいのウンチが出ていました。

 ウンチって、本当に毎日違います。ちょっと体調が崩れると下痢気味になり、離乳食が消化できないと、にんじんがそのままの色で出てきます。ウンチによって、体調がわかり、歩睦の体の中も想像できるんです。赤ん坊が、だんだんと食べもののレパートリーが増えていくのは、つまり内臓がさまざまな食物を消化できるようになる過程なわけです。

 ウンチの成長は、イコール体の成長なわけです。

 ねっ、そうやって考えると、ウンチも一概に「汚い!」とも言えないじゃないですか。

 

 それから鼻水ですが、これははっきり言いますけど、汚くないです。

 まず、赤ん坊は自分で鼻がかめない。これって、乳飲み子にとってはかなり重大なことです。母乳やミルクを飲む時、赤ちゃんは相当の力で吸い付いているのですが、これが鼻が詰まっているとうまくできない。大人であれば鼻をかめばよいわけですが、赤ん坊はこれができない。で、どうなるかというと、そのまま飲もうとし続けて、息ができなくて、苦しくなって、泣くわけです。

 こうならないように、赤ちゃんの鼻水を吸い取ってあげなきゃいけないわけです。どうやるかというと、赤ちゃんの鼻に口をつけて思いっきり吸い込んであげる、ただそれだけです。簡単です。でも、この簡単なことが、初めはちょっと抵抗があって、できないんですよね。今になって振り返るとなにを躊躇してたのかなって思うのですが。だって、目の前で子どもが苦しんでいるのですから。

 

 とまあそんなわけで、一般に汚いといわれていることも、ときと場合によっちゃあそうでもないなあと思うのです。これまでの思い込みや、自分の中の規範、判断基準が変わっていく、これも子育ての醍醐味かもしれません。

 

 

行政マンのダウン症育児日記(11:2005/9/6記)

 

地上22センチの世界

 時刻は、朝7時。場所は、うちの中で最も落ち着く個室空間。先ほどからの努力のかい空しく、なかなかお通じがこない。よっしゃ、もうひとふんばり!

 と、そのとき、扉の下から小さな手がひょっこり顔を出した。トイレまで入ってくるとは、うるさいやつ。それにしても扉と床の間に、そんな隙間があったなんて…。

 f:id:hiromappi:20150124173537j:plain

 歩の視線の高さは、だいたい地上20から25cmで、われわれ大人が過ごしている世界とはかなり違う。先日も、いつもはあまり使っていない書斎兼物置部屋でゴソゴソやっていたと思ったら、封筒の束を持って廊下に出てきた。どうやら戸棚の一番下の隙間に挟まっていたもののようなのだが、低い視線だからこそ見つかるものもあるのだなあと感心した。

 ちなみに最近のお気に入りを並べてみると、コンセントから延びるコード(地上19㎝)、電話線(同18cm)、ビデオデッキとその上においてあるリモコン(同35cm)、リビングにある料理の本(同3cm)、ベランダ(同マイナス18cm、一度落ちたことあり)である。彼の世界がだいたい想像できるかと思う。

 

 もうひとつ、歩が気になってしょうがない場所が、卓袱台だ。

リビングにおいてある卓袱台は、高さが35cmあり、歩は全体を見渡すことはできない。彼の視線では、そこに何かが置いてあることがわかる程度で、それが食べ物をはじめとしたかなり興味深いものであることは知っている。

 この間は、ちょっと目を話した隙に卓袱台の上のコップに手を伸ばし、何とかつかんで引き摺り下ろすことに成功した。中にはお茶が入っていて(幸いそれほど熱くはなかった)、歩は頭からかぶったのだけど、その得意そうな顔といったらなかった。

 そんなわけで、わが家の卓袱台では、危ないものはへりから離して置くことにしている。

 

 卓袱台ついでに食事の話。

 歩が食卓に着く際に使っているのが、木で造った子ども用の小さな椅子。これ、療育センターの先生と相談して、なかなか座位が保てない歩用に、知り合いに頼んで造ってもらったものだ。ちょうどお尻がすっぽり収まる幅になっていて、左右にぐらぐら揺れずに座っていられる。これのおかげで食事がずいぶんと楽しくなった。

 最近では、右手につかんだバナナを左手に持ち替え、さらに右手に持ち替えなおして、ニギニギしている。かと思うと、つかんだバナナを思いっきり握りつぶし、指と指の間からニュルニュル出てきたものを口に運ぶ。それに飽きると両手を振り回し、そこらじゅうに投げ散らかす。とにかく食事中は片時も落ち着く暇がないのだが、本人はいたってご機嫌である。

 両手が自由に使えるのが嬉しくてたまらないようにも、また、いつも下から覗き込んでいる卓袱台を、上から見下ろせて楽しいようにも見える。

 視線が変わると、世界が変わるわけですね。

 

 と、そんなわけで、廊下に寝ころんでみる。

 ヒンヤリしていていて気持ちいい。

 ごろん、仰向け。ごろん、うつ伏せ。ちょっと硬いのは難点だけど、夏は冷たくていいかも。そのままほふく前進してみる。歩の様に素早くは動けない。廊下からリビングへ移動。なるほど、こんなふうに見えているのか。たしかに卓袱台の上はよくわからない。ベランダに向かう。途中、ビデオの横を通過。おやスイッチが入れっぱなしだ、消しておこう。窓のところまで来た。鍵が閉まっていて開かない。当然、鍵には手が届かない…。

 

 いつも生活している部屋が、こんなにも違って見えるのは、ある意味で驚き。

 地上22センチの世界。この視点からしか見えてこないものがあるんですね。

 一番よく見えたのは…、やっぱホコリかなあ。もっと頻繁に掃除したほうがよさそうだな。今回も反省して終わります。

 

行政マンのダウン症育児日記(10:2005/8/22記)

小さい大きい

「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」、さてなんでしょう?

 いや別に、クイズをやろうというわけではない。実はこれ、子育て雑誌の名前なのです。発行元はジャパンマニシスト社というマイナーな出版社で、毛利子来、山田真という小児科医2名が編集代表をつとめている。そのためか、テーマは「予防接種はなぜ安心といえるの?」「病気のみかた・医者へのかかりかた」など、子育ての悩み、医療関連が中心の丁寧なつくりになっている。

 で、何のはなしかというと、中身ではなくて、雑誌の名前(通称「ち・お」)のこと。「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」、反対の形容詞を2組並べただけなのだが、これ、「小さい」と「大きい」、「弱い」と「強い」を価値観抜きでフラットに比べている。

「どうしても大きくなきゃいけないの?」「やっぱり強いほうがいいの?」と、語りかけているようにも思える。普通ならば、大小、強弱、の順に並べるところを、あえて逆に、しかもひらがなで表記しているところに、そんな想いを感じる。

 

 歩は今、1歳と5ヶ月になる。

 ダウン症だからか、未熟児で生まれたからか、それとも肺炎で入院して体力が落ちたからか、またはその全てが原因なのか。いずれにしても、いまだに体重が7キログラム前後でうろうろしている。

 街中で会う人から掛けられる言葉は、「かわいい赤ちゃんねえ、何ヶ月ですか?」。

 (やっぱなあ、小さいよなあ、0歳児に見えちゃうよなあ。)と思いながらも、「いやいや、もう1歳なんですよ」と返す。だけど、ちょっとショック。

 歩の通っている保育園でも、同じクラスの子どもたちは、自分でお座りができたり、つかまり立ちができたり、早い子は歩いているのに…。歩はまだハイハイをしているだけだ。

 極めつけは、この夏にアメリカから来たいとこの渉くん。まだ生まれて7ヶ月なのに、お座りどころか、つかまり立ちもできる。おもちゃの取り合いをしても、体格でも劣っている歩は、お気に入りの人形を奪われて泣き出す始末だ。渉くんが生まれたときには、歩のお古を送ってあげたのに。もう追い抜かされちゃっているのか…。

 

 そんなふうに、どうしてもほかの子と比較して、小さいこと・弱いことが気になってしまうのだが、それだけじゃあいけないよなあとも思うことがある。

 8月に入ったころだったと思うが、わが家に遊びに来た知人の帰り際に、歩がバイバイをした。たまたま手のひらを広げて左右に振っただけなのだろうが、まるでさよならの挨拶をしているようだった。両手を大きく、ブルブル左右に振るしぐさは大の得意。だからこれは親ばかなのだろうが、とにかくバイバイをしているように見えて驚いたのだ。

 それからつい先日、おやつの赤ちゃんせんべいを食べさせているときのこと。これまで食べ物を自分で食べることのなかった歩が、せんべいを握り締めて口にもっていった。離乳食を始めて以来、親がスプーンで食べさせる習慣が定着しており、歩が自分で食べ物を口に運ぶことがなかったのだが、この様子を見て、もう少し自由にさせてみようかと反省した。

 これらのことは、日常のほんの些細なことだけど、よーく見ていると、歩も確実に成長していることがわかる。あんまり「普通」を意識しすぎると、歩のよさを見落としてしまうことにもなりかねない。歩睦のスピードに寄り添って、ゆっくり一緒に過ごすことも大事だなあと感じるわけです。

 

 歩は歩。

 ほかの子はほかの子。

 歩は歩む、歩のペースで。

 ゆっくり、ゆっくり、歩のペースで。

 歩がときおり見せる、とびっきりの表情は、こう言っているのかもしれない。

(お父さん、あんまりよそ見しちゃだめだよ。ちゃんとボクのこと見ててよね)って。

 

 と、そんなことを考えながら、今日もせっせと離乳食を作る。献立は、マッシュポテトに、ナスの味噌汁、それにシラス入りのおかゆ。どのお椀も、いつも多めにご飯が並ぶ。そしてついついたくさん食べさせてしまう。(はやく大きくなあれ)、と。

 そう、やっぱり、「はやく」そして「大きく」なって欲しいんですよね。

 うーん、揺れるおやごころ。

 でもね、たまにはこうつぶやくことにしているんです。

 「ち・お」ってね。 

 

行政マンのダウン症育児日記(9:2005/8/19記)

 

 

 

肺炎で入院

 「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

 針の先からしずくが落ちる。腕の中には歩がいる。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

 一時間に40ミリリットルのスピード。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

 時刻は午前3時。ビニールの袋の中には200ミリリットル残っているから、この点滴が終わるのは…。朝の8時か。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

 窓の外に、丘の上の浄水場が見える。丘のふもとから自動車が坂を上っていく。ひときわヘッドライトが明るく輝く。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

 歩はようやく浅い眠りに着いたところだ。38度の熱が続いていて、肩で息をしている。本当につらそう。ベッドに寝かすと、すぐに目を覚ましてしまいそうで、少し落ち着いていることだし、このままもうしばらく抱いていよう。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

 それにしても、こんなことでこれから先やっていけるのだろうか?肺炎が良くなっても、また別の病気にかからないともいえない。こんなに体の弱い子なんだから、保育園は無理なのかなあ…。仕事辞めて、歩にしっかり付き合う人生もあるかもなあ。別に仕事では、自分の代わりがいないわけでもなし…。

「ポタッ、ポタッ、ポタッ」

 針の先からしずくが落ちる。

 一時間に40ミリリットルのスピード。

 腕の中の歩は、穏やかな寝顔。

 

 高熱に、咳が続き、ミルクを飲んでもすべてもどしてしまう歩は、誰が見ても本当に可哀そうで、痛々しく、この闘病生活でなんと体重を1キログラムも減らした。もとが7キログラムからの減だから、歩の体にかかった負担は相当のものだっただろう。

 午前3時の病室で点滴の針を眺めながら、考えたことは、その時点での正直な気持ちだった。肩で息をしながら、ようやく眠りについた子どもの顔を見ていたら、誰だって、仕事よりも大切なものがあることを確信する。

 

 結局、歩の入院生活は、間に数日の外泊を挟み、都合3週間におよんだ。

 歩の入院中は、基本的に妻が病院に泊まりこみ、自分は家と職場と病院の往復をくりかえした。そして何日かは役割を交代して、ときに妻が仕事に出た。

 さらに、こんな大変なさなかにもかかわらず、自分自身、風邪で高熱を出しダウンしてしまう始末。両方の親はもちろんのこと、兄弟、従兄弟、伯母、果ては近所のおばさんまで、頼めるところにはすべて頼んで、何とか乗り切った。当然職場、とりわけ妻の職場には大きな迷惑をかけることになった。

 

 さてさて、そんなこんなを乗り越えて、ではわが家3人が今どうしているかというと、まず歩は、数日の自宅療養期間を経て、保育園に復帰した。妻は3週間のブランクを埋めるべく、休日返上で14日間連続で出勤し、必死で仕事に打ち込んでいる。

 自分はというと、なかなか仕事のペースが掴みきれず四苦八苦しているのだが、今回の入院騒ぎで良かったこともあった。

 これまで利用していた「部分休業制度」に加え、「育児のための特別休暇」「子どもの看護のための特別休暇」、さらには、健康保険組合から差額ベッド代の半額給付まで受けられることがわかった。これらは自分のことを心配して、職場の人が調べて教えてくれたものだが、その他にも仕事面でのフォローもありがたかった。

 

 それにしても、子どもを抱えた家庭では、どこも似たような経験をしてきているのでしょうか。みなさんの子育てはどんなですか?やっぱり入院の1つや2つは当たり前に乗り越えてきているのでしょうか。

 そうやって丈夫になっていく?のかなあ??

 健康って、ほんっっと、大事ですね(反省を込めて)。

行政マンのダウン症育児日記(8:2005/5/7記)

GWはすこし長めに

 こんなことがあった。

 

 中学に入って、自分の死について考えることが多くなった。特に理由はない。若いときにはよくありがちな、命の揺らぎとでもいうのだろう。

 ふとした瞬間に、絶体絶命の場面を想像して、そのとき自分が何を思っているのか考えた。ビルから落ちていく瞬間も、病気でベッドの上で見取られる瞬間も、凶刃に倒れる瞬間も、必ず最後の言葉は決まっている。「お母さん!」だ。

 

 子どもと母親の関係は特別だ、と言われる。

 とりわけ自分の場合は、小さな頃から体が弱く、喘息の発作で入退院を繰り返していたからなおさらそうだと思う。大学に入学する頃まで、困ったときにはよく母親の顔が思い浮かんだものだ。世に言う、マザコンというやつだ。

 

 で、ここからが少し屈折している。

 マザコンである自分を認識しながらも、そして母親に対して絶対の信頼を置きながらも、自分はそうはなりたくないと思っていた。「そう」ってどういうことかというと、母親に子どもを取られてしまうような、そんな父親になりたくなかったのだ。つまり、自分の子どもの最後の言葉は「お父さん!」であってほしいのだ。

 

 さて、話は現在に飛ぶ。

 自分の腕の中に赤ん坊がいる。

 時計の針は夜の9時を回った。いつもならばとっくに寝ている時間だ。

 ところがこの赤ん坊は、父親である自分の顔を見ては、大きな声で泣き喚いている。保育園でたっぷり昼寝をしてきたせいか、それとも虫の居所が悪いのか、全然眠る気配を見せない。かれこれ30分も寝かしつける努力を続けているというのに、泣き声はますます大きくなるばかりだ。

 

 ふと目を上げると、妻が側に立って、手を広げている。

(こちらへ、よこせということか)

 赤ん坊も妻の顔を、目で追っている。

(あっちへ行きたいということか)

 ここで渡してしまっては、負けを見とめることになる。が…。

 

 5分後、妻は勝ち誇ったように、寝室の扉から出てきて言った。

「あゆくん、やっぱり、ママがいいんだって」

(こんなはずでは…)

 

 というわけでゴールデンウイーク。

 職場には少々迷惑をかけたけど、しっかり10連休を取って、妻の実家に遊びにきた。

 くる日も、くる日も、歩と一緒。

 朝起きてから夜寝るまで、ミルクを飲ませるのも、夜寝かしつけるのも、できる限り妻には渡さない。

 保育園の送り迎えは、通勤時間の都合上、ほとんど妻にまかせっきりになる。勢い、歩と一緒に過ごす時間は妻のほうが長くなり、最近、寝かしつけるときの成功率が目に見えて下がってきているのだ(普段の日は、自分と妻が半々で受け持っている)。ゴールデンウイークで取り戻しておかないと、この先が思いやられる。

 

 今日はゴールデンウイーク最終日。

 努力の甲斐もあって、ここ数日の歩は、お父さんと寝ることに何の疑問も持っていない様子。うーん、いい傾向。つい1時間前も、自分が寝かしつけてお昼寝をさせたばかりだ。

「うぇーん、うぇーん」

 おっ、歩が目を覚ました。そろそろお腹がすいたのかな?そういえば、泣き声も、よく聞くと「おとーさん、おとーさん」って、呼ばれているような気がしてきたぞ!?

 

行政マンのダウン症育児日記(7:2005/6/12記)

やっぱり親子です

 いつもの中華料理店で日替わりメニューを食べ終えて、時計を見ると12時35分。今から駆け込めば、午後の始業時刻までには間に合いそうだ。最近運動不足ぎみのうえに、たらふく食べた腹にはちょっときついけど、いきつけの店に急いだ。

「いらっしゃい!こちらにどうぞ。今日はどうしますか?」

「暖かくなってきたから、短かめでお願いします。まわりは刈り上げて、もみ上げは残して、前髪は立つぐらいで。それから上のほうは撥ねないように」

 そう、もうお分かりですね、短い昼休みの時間を利用して散髪にきたのでした。冬も終わったし、短くさっぱりしたかったのもあるけど、もうひとつ、今日中に切りたかった理由がある。

 実は昨日の夜、妻と二人で歩の髪を短く切った。歩の髪は生まれたときから比較的ふさふさで、伸びる速さも大人とほとんど変わりがない。この1年間で散髪もすでに3回をかぞえた。なかなか生えてこない子もいる中で、髪の毛の成長だけは他の子に引けを取らない。

 そんな歩と、同じ髪型にすべく、短い昼休みにあわてて床屋に走ったというわけ。1歳になって、ますます「お父さん似」といわれる機会が増えた歩と、さらなる相似形を目指して。「似てる」といわれると、やっぱり嬉しいのだ。

 

 歩と自分は、顔の上半分、特に目と眉毛が似ているといわれる。目の形や、眉の表情、額の広さなど、言われれば確かに似ているなあと思う。そしてもうひとつ、決定的に似ている点がある。

 

 自分は寝るときに真っ暗な部屋で寝るのが好きだ。というより明るい部屋で寝ると疲れが取れない。理由は簡単。眠っているときにまぶたがうまく閉じない。以前から両親に言われていたが、妻からも指摘された。

いわく、「白目をむいて寝ている」

いわく、「眠っているのに目が閉じていなくて気持ち悪い」

 

 で、その自分の寝顔と、歩のそれがそっくりなのだ。どんなに上まぶたを閉じようとしても、下まぶたまでの距離がなくならない。見る角度によっては、まるで起きているように見えるときもある。

 親子だなあと思う。そして父親似だなあとも。

 

 でもそんな自分だが、正直に白状すると、はじめて歩の顔を見たときは、自分たち夫婦の面影を見つけることができなかった。看護士さんに「お父さん似ですねえ」なんて言われてもピンとこなかったし、歩がダウン症だとわかってからはなおさらだった。

 知的障害の子と、自分が似ているなんて言われて、少々拒絶反応もあった。

ダウン症の子は、生まれながらに国際人。人種を超えた共通点がある」と何かの本で読んで、「確かにそうだなあ、なんとなく分かるもんなあ」と思ったものだ。

 

 でもね、やっぱり親子なのですよ。

 だんだんと似てくるのです。

 目を開けて眠っている歩に向かって、思わず「息子よ…」、と語り掛けている自分がいるのです。

 

 鼻が低かったり、口のしまりが悪かったり、ちょっと目じりが切れ上がっていたり、そんな、いわゆるダウン症っぽい顔つきも、だんだん味があるように見えてくるのです。だんだんかわいらしく、愛しく感じてくるのです。

 

 生まれたときから親子だなんて、あれ、ウソですね。

 人は、段々に親子になっていくんです。

 だってさあ、生まれたばかりの赤ん坊って、あんまりかわいくないもん。

 ましてや障害児だったら、素直に全部受け止めるのって、すっごく難しい。そして、そんなふうに赤ん坊をかわいく感じられない自分のことを、みんな責めるんだ。まわりがどうこうじゃなく、自分が自分を責めるんだなあ。だから辛い。

 でも、そんな親も、赤ん坊と関わっていくうちに段々変わっていく。段々親らしくなっていく。それはきっと、赤ん坊がそうやって、自分たち親のことを育ててくれているのかもしれない。

 親子って、不思議。

 

 今日はいい天気、久しぶりに三人で散歩に出かけよう。

 もちろん、おそろいのTシャツを着て。

 あゆくんとパパは青色の、ママはベージュの、おそろいのTシャツ。

 ちょっぴり気恥ずかしくて、ちょっぴり自慢したくなる。

 そんな気分の、お散歩に行こう。

行政マンのダウン症育児日記(6:2005/4/28記)

ごみ箱をひっくり返すと、そこはワンダーランド

 

 リビングで歩と2人で過ごしていたときのこと、気づくと歩の姿が見えない。ついさっきまでカーペットの上で遊んでいたのに…。

 とそのとき、ちゃぶ台の下から

「うぇーん、うぇーん(ガン、ガン)」と泣き声がした。

 

 いた、いた、ちゃぶ台の下に歩がいた。頭をガンガンちゃぶ台に打ち付けて、前後に動けない状態で泣いていた。

 うーん、わが息子ながら、なんてアホな姿。

「うぇーん、うぇーん(はやくだしてよー!)」

 かわいそうだけど、しばらく眺めていたい気もするなあ。

「うぇーん、うぇーん(なにやってんだよー!)」

 わかった、わかった、うん、すぐ出してやるぞ。そのまえに写真だけ一枚撮らせろな。

「ウギャー!!(バカー!はやく出せー!!)」

 

 最近また、歩の行動範囲が少し広がってきている。

 今までリビングから出ることはなかったのに、パパを探して廊下に出てみたり、お料理中のママを追いかけてみたり。

 4月に入って、コタツ布団を片付けたのも、歩の世界を広げるのに一役買った。これまでリビングに鎮座していたコタツ布団が消えたことで、視界が一気に開け、コタツの向こう側にあったテレビの台や、書類の束が目に飛び込んでくるようになったのだ。

 

 そこで歩が目を付けたのが、ごみ箱。

 リビングに限らないが、ごみ箱を見つけると突進していって、何とか上辺部のふちに手をかけ、倒す。これが目下のところ、一番のお気に入りの遊びだ。

 寝室においてあるごみ箱も、朝一番に起きて何とか布団から這い出した後は、突進していって倒す。あとは歩のワンダーランドが展開する。

 

 それにしても「ごみ箱=汚い」という、固定観念があるから、何でこの子はこんなに汚いものが好きなのだろうと、はじめは不思議に思ったものだ。でも、ちょっと考えてみたら、別に汚いものが好きなのではなく、ごみ箱を倒した後の状態が好きなのだ。

 ちなみにうちのごみ箱の内容物は、紙ごみが中心で、あとはビニール袋など。一番多いのはティッシュペーパーかもしれない(季節によりますが…)。

 

 ごみ箱を倒すと、何もないところに、瞬時にして大好きなティッシュや紙、ビニールが散乱した状態が出現する。どうやらこれが楽しくて仕方がないらしい。

 そういえばティッシュペーパーの箱も大のお気に入りで、ほっとくと際限なくティッシュを引っ張り出している。

 これなんかも、無から有が出現する不思議さがあるのだろう。何しろいくらでも出てきますからねえ。

 

 とそんなわけで、現在わが家のリビング及び寝室には、ごみ箱が存在せず(押入れなどに隠してある)、ティッシュペーパーの箱もテレビのうえなど、ちょっと高いところにおいてある。

 

 倒したり、引っ張り出したり、何もないところに、大好きなモノたちが出現する不思議さ。

 歩から見た世界は、きっと驚きに満ち溢れているのだろう。大きくなって、話ができるようになったら、どう感じていたのか聞いてみたい気もする。

 

「何にもないところに、ステキなものが現れるのは、どんな気持ちだった?

 きっとワクワクしたろうね。

 

 でもね、歩、

 世の中で一番不思議なのは、何にもないところに、とびっきりステキなお前が生まれてきてくれたことなんだよ。

 無から有が生まれる。

 ホントにすごいことだと思わないかい?

 

 えっ、なに?

 パパとママの、2人の愛があったじゃないかって?」

 

 失礼しました。ノロケが過ぎたようで…。