行政マンのダウン症育児日記(2:2005/3/22記)
生まれたときのこと
「うー、うー、うー」
午前10時過ぎ、歩が中空の一転を見据えながらうなり始めた。
昨日はしてないからそろそろかなあと思っていたから、予定通りだ。こんなときは知らん振りしているに限る。
朝食の洗い物を終わらせてリビングに戻ると、涼しい顔をして遊んでいる。お尻に顔を近づけると、いい香り。ばっちりお通じが来ている。今日はかなり粘り気があって、オムツからはみ出していない!ちょっと前までは、洋服はもちろん、コタツ布団やカーペットまで漏れたことを考えると、かなり嬉しい。この喜びは、手間を減らせるのと、歩の成長が見えることの両方かな。
歩は平成16年4月8日、予定より1ヶ月早く帝王切開で生まれた。体重は1,918gの低体重児(いわゆる未熟児)で、生まれてすぐ保育器に入れられ、その後1ヶ月をNICUで過ごした。予定日より1ヶ月も早く生まれたのは、羊水が濁ってきたとかで体重が増えなくなったから。
で、生後1週間で、まず心臓の疾患について先生から話があった。
病名は心室中核欠損。心臓の壁に穴があいていて、心雑音が聞こえる。穴が小さい場合は、ほうっておけば塞がることもあり、割とよくある病気だそうだ。歩の場合は約直径1cmの穴で、半年以内に手術が必要とのこと。
ある程度は予想していたが、心臓とは、ショックだった。ただ、何とかしなくちゃ、という気持ちのほうが大きかった。さっそく知人に電話をかけまくって、小児の循環器科で信頼できる病院&執刀医を探した。今思うと、このときは妙に張り切っていたのかもしれない。
きつかったのは、2番目の告知だ。
退院を間近に控えた4月終わり。「両親そろってきてください」という担当の先生の言葉に、一抹の不安を感じながら入った部屋で、自分たち夫婦の前に置かれたのは、23対の染色体が書かれた1枚の書類だった。
「21番目の染色体が3本あります。ダウン症です」
単刀直入に述べられたその言葉のあとでは、先生のどんな説明も頭に入らなかった。
「いわゆる知的障害ってやつ?」「ちゃんと育つのかなあ…」「はじめての子なのに…」「何でこの先生淡々としゃべってんだよ」「心臓に病気もあるんだし、いっそのこと…」「何かの間違いでしょ?」「みんなになんて伝えればいいんだ…」
頭の中をさまざまなことが駆け巡り、あきらかに動揺していた。ふと隣を見れば、顔をこわばらせ、不安げな妻がいた。
その後、気持ちが立ち直るまで、しばらく時間が必要だった。仕事中に突然、ぶわっとこみ上げてきて涙が出てきたりして、落ち着くまでに、2週間はかかった。
その間、何をしていたかというと、とにかくダウン症に関する本を読みまくった。20冊は読んだと思う。それともうひとつ、知り合いにしゃべりまくった。親しい人には、ほとんど話した。不思議と隠そうとは思わなかった。どうせわかることだからと、積極的に話した。
結果的に、これが良かった。
話すことで気持ち的に楽になったのと、おもわぬところから励ましの言葉をたくさんもらった。全部は紹介できないけど、すごく嬉しかったのを2つだけ。
1つは、役所の同期。
「子どもは社会の子だよ。一緒に育てよう」。
これには、気持ちが軽くなった。大変かもしれないけど、助けてくれる人もたくさんいるんだなあ、と思えた。何気なさをよそおってかけてくれた言葉で、それも嬉しかった。
もう1つは、自分の父親から。
「ダウンの子は、ホントにかわいいよ。素直で、やさしい子が多いよ」
これは、ダウン症をプラスにとらえてかけてもらった、初めての言葉だった。障害はいいこともあるのか、と少し思えた。何より前向きなのがよかった。
ひとは、言葉によって助けられる。
励ましてくれたり、悲しんでくれたり、誉めてくれたり、一緒に悩んでくれたり…。前向きも、後ろ向きも、誰かがそばにいてくれると感じられるだけで、どんなに心強いことか。
そういえば誰かが言っていた。
「親は、子に育てられるんだ」って。
あゆくん、お父さんはちゃんと育っていますか?